2010年5月16日日曜日

おかしな判決 ビラ配布で時代錯誤もいいとこだ

政党のビラを配布しただけで逮捕された、二人の国家公務員がいた。
マンションのポストに投函しただけだった。

同じ事をしたのに、一人は無罪、もう一人は有罪の判決が出された。
なんで?

1974年に公務員の政治活動の自由を厳しく制限する最高裁判決(猿払判決)を踏襲するかどうかが分かれ目だった。
無罪の理由は、表現の自由など基本的人権は大事だというように時代が変化してきたことを重く見た。

一方、有罪の理由は、先の最高裁判決を重視し、時代の変化も見なかった。
これに対し、朝日新聞は、
「猿払判決を貫く論理の荒っぽさ、この間の国民の法意識の深化や人権意識の発達、行政や公務員を取り巻く環境の変化などを考えれば、この判例は見直されてしかるべきだ」と批判している。

そのとおりだと思う。時代錯誤もいいとこだ。






朝日新聞 2010年5月15日(土)付
社説:政党紙配布―理は無罪判決の方にある
仕事のない休日に、職場や自宅から遠い地域で、身分を明かすことなく、支持する政党の機関紙を家やマンションの郵便受けに1人で投函(とうかん)する。
そんな行為が、公務員に政治的中立を求めた国家公務員法に違反するとして、2人の男性が起訴された。審理は別々に行われ、1人は東京高裁で無罪となり、1人は同じ高裁の別の裁判部から有罪の罰金刑を言い渡された。
事件の概要はほとんど変わらない。裁判官の判断を分けたのは、憲法が保障する「表現の自由」に対する理解の深さの違いというほかない。
無罪とした中山隆夫裁判長は、表現の自由には政治活動の自由も含まれると指摘したうえで、この程度の行為で行政全体の中立性に対する国民の信頼が失われる危険があるとはいえず、刑罰を科すのは憲法に反すると述べた。
一方、有罪の出田孝一裁判長は表現の自由について正面から論じないまま、機関紙の配布は政治的偏向が強い行為で「放任すると行政の中立的運営が損なわれ、党派による不当な介入や干渉を招く恐れがある」と説いた。
もちろん行政は国民全体の利益のためにあり、中立・公正であるべきは言うまでもない。だからといって、そのために個人の人権をないがしろにしてもいいという話ではない。
なぜ表現の自由は大切なのか。ものを考え、他者に伝えることによって、人間は成長をとげ、政治にも前向きに参加していくことができる。自由で民主的な社会を築き発展させるために、それは不可欠な存在なのである。
だれもが基本的人権として表現の自由をもつ。ここをしっかり押さえたうえで、では行政の中立性を担保するために、公務員にいかなる制約を課し、違反した場合にどんな制裁を与えるのが適当かを検討する。それが憲法の理念にかなう考えの進め方である。
公務員の地位や権限、仕事の中身と性質、政治活動の内容・態様……。様々な事情を考慮し、問題のあるなしをケースごとに見極める。そうしたアプローチをとって無罪を導き出した中山判決にこそ理があると思う。
高裁の判断が割れ、結論は最高裁に持ち越された。最高裁は1974年に公務員の政治活動の自由を厳しく制限する判決を出している。15裁判官のうち4人の反対意見がつき、学界などからの批判も強い猿払(さるふつ)事件判決だ。
それから36年。今回の二つの事件をすべての裁判官が参加する大法廷に回付し、徹底して議論してもらいたい。猿払判決を貫く論理の荒っぽさ、この間の国民の法意識の深化や人権意識の発達、行政や公務員を取り巻く環境の変化などを考えれば、この判例は見直されてしかるべきだ。
憲法や人権をめぐる認識がまた一歩深まる。そんな判断を期待したい。


東京新聞 2010年5月14日
【社説】ビラ配布有罪 時代に沿う法改正も
政党ビラを配布し、国家公務員法違反に問われた元厚生労働省職員が二審でも有罪となった。表現の自由を重くみて、同種事件を無罪とした判決もある。時代の流れをくんだ法改正も検討すべきだ。
「政党機関紙の配布は、党派的偏向が強く、公務員の政治的中立性を損なう恐れが大きい」
東京高裁が一審に続き、有罪に導いた判決理由は、このような内容だ。厚労省の元課長補佐は二〇〇五年の総選挙の前日に共産党機関紙号外を配布していた。
だが、三月下旬に元社会保険庁職員に出された高裁判決は「無罪」だった。共産党機関紙を配布したという、ほぼ同様の起訴内容でありながら、今回は全く異なる判断をしたことになる。
元社保庁職員のケースで、別の裁判長は「表現の自由がとりわけ重要な権利だという認識が深まっている」ことや、東西冷戦が終息し、左右のイデオロギー対立の状況が落ち着いた時代の変化も踏まえた。「世界標準という視点から見る必要がある時代」とも述べていた。
公務員を「お上」視して、ことさら「官」の影響力を強く考える傾向にあった時代でもない。公務員に対する国民の意識も変わったことなども考え、無罪という結論に至ったのだ。極めて画期的な判決だったといえる。
それに比べると、今回の有罪判決は一九七四年の「猿払(さるふつ)事件」の最高裁判例をそのまま踏襲し、形式的に当てはめただけの印象だ。
ビラ配布での公務員起訴には、国連の国際人権規約委員会が〇八年に懸念を表明し、日本政府に表現の自由への不合理な制限を撤廃すべきだと勧告もした。
そもそも、「政治的行為の制限」を定めた国家公務員法の条文や人事院規則は、米国の法律が基となったとされる。その米国では九三年に法改正がなされ、勤務時間外や勤務場所以外の政治活動は自由となった。
「公務員の完全な政治的中立の維持は不可能」という学説もある。公務と私生活を区別せず、職務権限や勤務時間の内外を問わずに全面的に政治活動を禁止し、反すると刑事罰を科すのは、あまりに制限が広すぎる。
日本弁護士連合会は、同法の罰則規定を改めるように求めている。公務員といえども一市民である。表現の自由への規制が最小限であるべく、政治の側が法を再検討する時といえよう。

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